くだらない事への私の無駄な考察3「支離滅裂な思考・発言は差別」

どうもです。ひなと申します。まず最初に少し注意事項として、これはあくまで私個人の意見ですのでこれが正しいというわけではありません。あくまで個人の意見として捉えて下さい。

さて、私は今日とあるツイートを見かけました。その内容は、「支離滅裂な思考・発言」は元は精神病に関する本に記載されていたものであるから、それを使って大喜利を行う事は精神病を患っている人への差別である。というものでした。

そこでそれは本当に差別になるのか、ということですが。結論から言ってしまえばなりません。

そもそも差別というのは、その人によって扱いを変える事を指します。有名な差別の一つである黒人差別を例に挙げるなら黒人は白人と同じトイレを使ってはならないなど、黒人へ不当な扱いをする事を指しています。

それを踏まえてこの事が差別になるのかを考えてみましょう。

まずこの大喜利が精神病患者への扱いを変えているか、それに関しては言うまでもありません。これによって扱いは一切変えていませんよね。

それではもう一つ、これが精神病患者を侮辱しているのか。これに関しては少し当てはまりそうな気がしますよね。ですがこれも違います。この大喜利はあくまで現代における「支離滅裂な思考・発言」を侮辱しているもので、精神病患者という枠での侮辱はしていないと言う事です。「支離滅裂な思考・発言」をする人=精神病患者ではありませんからね。もし「支離滅裂な思考・発言」の元になったと言う本が、「支離滅裂な思考・発言」している人が全員精神病を患っているとか精神病患者は全員「支離滅裂な思考・発言」をすると書いてあったなら話は変わりますがそんなはずはありませんよね。

そもそもとして侮辱=差別ではありません。先ほども書いた通り、差別とはその人への扱いを変える事です。またそれが良い扱いになっても悪い扱いになっても実は差別になるんです。つまり精神病患者を特別に扱う事も差別になりますし、それを望むと言うのは差別を望む事に他なりません。

よって「支離滅裂な思考・発言」をする人への侮辱は精神病患者への差別である。というのは被害妄想であると言わざるを得ません。

ですがこの問題は私達に重要な事を教えてくれています。それは自分達が意図せずとしている事が差別になりかねないという事です。この問題は「支離滅裂な思考・発言」で大喜利をしている人は精神病患者への差別なんて考えていなかったでしょう。ですが今回このような捉え方をされてしまった。たとえそれが被害妄想の一つだったとしても、無意識に差別をしてしまう事があると言うのを常に頭に置いておきたいですね。

それでは。

くだらない事への私の無駄な考察2「このゲーム民度低いわw」

どうもです。ひなと申します。
最近スマートフォンの普及と共に無数に増えたスマホゲーム。それと共によく聞くようになったのが民度という言葉。民度が高い低いとはどういうことなのか記述します。
結論を言ってしまえば、民度の低いコンテンツは人気のあるコンテンツです。本来民度の低いと言われるのはゲーム内外関わらず幼稚な行動をする人が「多い」コンテンツのはずです。しかし幼稚な行動というのはとても目立ちやすく、また他人に不快な思いを与える事で記憶にも残りやすいものです。そのため最近の民度の低いと言われるコンテンツには幼稚な行動をする人が多いではなく幼稚な行動をする人がいるかいないかになっています。
それが人気のあるないにどう繋がるのか、少し考えれば分かります。人気のあるコンテンツはそれだけで他の人の目につきやすい、つまり一部の幼稚な行動をする人がそのコンテンツに手を出しやすいと言う事です。
そしてなぜ幼稚な行動をする人は目立ちやすいのか。これも簡単で、例をあげて説明するならば現在ごく一般的な人しかいない遊園地にとても紳士的な振る舞いの男女と、下品な言葉ばかり大きな声で話し続ける男女を同時に入れたとします。どちらが目立ち、他人に不快な影響を与え、印象に残りやすいか、言うまでもありませんね。
つまり今現在に人気のあるコンテンツは全て民度が低いと言われていると言っていいでしょう。その中でも人数によってレベルが違うという感じになっているのではないでしょうか。
それでは。

くだらない事への私の無駄な考察1 「人の生きる意味」

どうもです。ひなと申します。
初めてブログを書きますのでまず軽く注意事項としまして、文章等がおかしい部分があると思いますので発見し次第優しい気持ちで見て、何らかの方法で教えて下されば幸いです。
それでは本文に入ります。
よく哲学者やメンヘラの方々等、人間誰しも人の生きる意味は何かと考えた事はあるでしょう。そうしてその答えでこれと言ったはっきりした物は未だ出されていません。
子孫を残すためだ、という意見がこの答えとしてかなり多く上がって居ます。しかし、私はそうではないだろうなと確信しています。理由としましては人類にあり、他の生物に無い物、知性にあります。
確かに一般的には動物は子孫を残すために生きていると言われています。しかし、これを人間に当てはめると不可解な点が生まれます。
それが偉人の存在です。人の生きる意味が子孫繁栄だとするならば、ビックダディなんかは偉人として讃えられるべきなのです。しかし実際讃えられている人々、例えばアインシュタインニュートンアルキメデス。彼らは子孫を繁栄させたという讃えられ方はされていません。これは人の生きる意味が子孫を残す事だとしたら明らかな矛盾です。
それでは人が生きる意味とは何なのかと言う話について、私の意見を述べます。
私は人が生きる意味は結局無いのではないかと思っています。実際人には知性により生まれる明確な個性があります。つまり人はそれぞれ違った事をしますがそれが全て間違っているわけではありません。
よって人が生きている意味を一概に表す事自体が間違っているのです。個性があるのだから、考えるべきは人が生きる意味でなく、自分の生きる意味を考えるのが正しいのではないでしょうか。
本文はこれにて終わります。
文才が無いため恐らく読みにくい駄文になっていると思われますが最後まで読んで頂きありがとうございます。反響次第では次もあるでしょう。
それでは。